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RAP/TAZとしての【地下大学】

6月7日 (土)一発目の地下講義は、【地下大学】のためのRAP/TAZ(講師:平井玄)@素人の乱12号店
内容は、一回目ということで、<地下大学宣言>でした。発破としての宣言、そして、掘削の始まりです。

なぜ「地下大学」か? ─── 騒動学序説
野坂昭如『騒動師たち』を読む。(平井玄)


【TEXT 1】
「SHINGO★西成 釜ヶ崎を持ち運ぶTAZとしてのラップ」
(東京藝大の院生たちを中心とした批評誌「RH」no.1 より)

  • 1960年代の公民権運動やブラックパワーによって獲得された対抗公共圏(ゲットーの暴動、広場の自由、アート空間)が鎮圧され(M・デイヴィス『要塞都市 LA』)、親密圏*1 (foodの路上、内密な室内、小さなクラブ)にまで退却していった70年代の終わりに、RAPの原型が生まれる。HIPHOPは、ミクロな場所からもっぱらコミュニティの内側に向けて語りかける1人の「呟き」だった(グランドマスター・フラッシュらの第1世代)。
  • S・リー監督による『 do the right thing! 』に描かれた暴動は、マルコムXの演説でもパンサーの銃でもなく、路上で鳴る大型ラジカセ(日本製)の音から始まる。そして80年代の終わりには、その極小の親密圏こそが「市場」になり、表象の「戦場」になる。インターネットを通じたサイバー空間の浸潤、 iPodをはじめデジタル・メモリーによる音響記憶の市場化が浸透する中、自滅的な「呻き」にまで「自発的に」退行していったのが、90年代に前景化したギャングスター・ラップの戦略である。
  • 黒人社会への麻薬汚染は、第2次大戦時におけるイタリア攻略へのマフィアの協力とバーターされて売買が黙認されて以来、FBIによって系統的に遂行されてきた「低強度戦争」である(J・エルロイ『アメリカン・デストリップ』)。
  • 最上のRAPとは、この声が「歌」になる一歩手前に留まり続けることである「呻き」に宙づりにされることである。自分の「声」さえ疑い、「歌」を呪うことである。なぜなら、言葉は奪われているから。歌は奪われているから。
  • SHINGO★西成は、そのフロウの中から「釜が崎」という場所、その路面を立ち上がらせる。なぜなら、道も、街も、公園も、ベンチも、奪われているから。彼のRAPは、「釜が崎」をその呻きとして持ち運ぶTAZ(一時的自律空間)である。
  • この同じ心身環境の只中から、「モヤモヤしたい」「引きこもらせろ」「働くな」といった、まったくプロレタリアート的ではない、ムチャクチャにプレカリアートなスローガンも現れる。

taz

【TEXT 2】
「可能性としての1968」平井玄+平沢剛による対談
(「週刊金曜日」6/6号より)

  • 流動、不安定、下層の、「正史」の地下を流れるダメでだらしない人々の生に「68年」を連結する。日本固有の地政学的条件を粗っぽく対象化しながら、安保全学連から連合赤軍へーという、68年世代による「68年の物語」の壁を突き崩すこと。リニアな語りの線を掻き乱すこと。リバータリアン的、ネオリベ的回収だけでなく(塩崎恭久ー村上龍 etc. )、新左翼史の内閉空間への回収をも擦り抜ける。プレカリアートの登場が、そういう「68年」の読み直しを要求している。
  • 織田作之助ー野坂昭如『騒動師たち』ー大学バリケードの有象無象ー『山谷 やられたらやりかえせ』 ー60年代前半の日常生活批判+シチュアオニスト的運動ー「語り部」としての日雇いたちー 記憶装置としての戦後大学ー国労までが、そのために呼び戻された。
  • とはいえ、「社会全体が寄せ場化した」(寄せ場学会の07年度テーマでした)と言ったとしても、何も語ったことにならない。それは「〈帝国〉」に外部はない」とするネグリ/ハートの言い方にそっくりである。
  • 上からの「寄せ場」(社会構成体として)であれ、下からの「寄り場」(社会形成体として)であれ、あの場所は「囲い地」「青空日雇い市場」として、あるいはやむにやまれぬ「集住地」として、巨大な黒点に似た〈外部〉だったのだから。とすると、「社会が寄せ場化した」とは「〈帝国〉に内部はない」ということになる !?
  • 資本主義は、常にその内部に外部を作り出さなければ、蓄積と膨張を持続できないーーとする、足立真理子によるローザ理論の読解史ー転生史への理解が、ここで生きるだろう。プレカリアートの存在は、砕かれた黒点、内部に人工的に作り出された無数の極小の外部なのである(足立によって、ジェンダー・バイアスやグローバル奴隷制といった新たな階層化が指摘されるだろう。しかしここでは、非正規労働者に焦点を絞りたい)
  • ネオリベラルな資本主義、ことにこの国のそれは、この「外部」が可視化することに対して極度に警戒的である。派遣企業を国策によって捜査するのは、移住労働者導入を計画しつつ、非正規労働者をコントロールする方法を模索しているからである。

───さて、【地下大学】である。

  • とすれば、能動的に「寄せ場」を創りだす時である。非物質的労働を生きるプレカリアートたちの「寄せ場」をー。「生の恒常性」(樫村愛子)を、いささかでも保証する場所としての「寄せ場」をー。TAZとしての「寄せ場」をー。むしろ「寄り場」と呼ぶべきかも知れないが。
  • 「高円寺」とは何か?そこは、おそらく「吉祥寺」と「下北沢」とを結ぶ三角地帯として、世界有数の高密度サブカル文化生産地の重要な一角である。
  • こうした点については、より若い世代の体験的な反論を期待したいが、少なくとも、東浩紀による「昭和サブカル・ノスタルジー」に生きる中央線ゾーンーといった理解は、しごく浅い「表象文化主義」にすぎない。非物質的生産に向かう企業にとって、レアメタルのような希少資源の潜在的な供給地であり、特異で高度な労働力のプールであることは間違いない。
  • と同時に、東京都心南部から湾岸への豊かなポスト・フォーディズム企業ゾーンと、北部のフォーディズム産業やさらに北西に広がる貧しい労働者地帯の、その長い境界線上に位置していることを見るべきである。
  • 例えば、ガソリン・スタンドで働くアルバイト労働者と、高円寺に集まるサブカルな人たちとを隔てている見えない敷居は、たしかに今はまだ高いだろう。その意味では、「高円寺を寄せ場に」などという主張は、今のところ68年オヤジの世迷い言にすぎない。
  • しかし、単純労働力としての1000万人にも上る移住労働者導入を経済界が模索し、同時に高付加価値な文化生産への急速な移行を進めざるをない日本資本主義の趨勢は、「非物質的寄せ場」の形成と、移住労働者との出会いを期せずして準備するかも知れないのである。ここでも、ナショナリズムとの闘いを労働運動に深く埋め込んだ寄せ場運動の経験は、私たちの重要なコモンである。
  • 今、文盲、無知蒙昧、野蛮は、積極的に作り出されている。「一切考えるな」と、東洋哲学なるものを海外大学で講じると称する裏千家宗匠は言う。高度な「一般的知性」をベースにすると、ネグリ/ハートが言うマルチチュードとはまったく逆に。ここでも「外部」は人工的に作り出されている。

そこで、何ができるのか?


  1. 公共圏/親密圏(60年代=ハバーマス)→対抗公共圏(70年代=イーグルトン)→TAZ(90年代=ハキム・ベイ)→RAP []

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