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汚染される私の選択

もう,逃げた方がいいのだろうか.このまま住み続けて,健康被害の不安に苛まれ続けるよりも…….
3月11日の原発震災発生後いち早く,仙台から小学生の子供を連れての「避難」という選択をした早尾貴紀さんは,避難先の関西から,仙台に残った知人や友人たちを「脱出」させるために,あらゆる手段を尽くし、 現在も福島県や宮城県の汚染地域で不安とともに暮らしつづけている人々のために,「疎開」のための知識と手段を提供しつづけている.

これまでユダヤ人とパレスチナ人、ふたつのディアスポラの悲劇的な衝突の中から生み出される思想に関心を集中してきた早尾さん.その早尾さんの眼に,すでに危険なレベルの汚染地域となりつつある東京のわたしたちの姿は,どのように映っているだろう?

【お話し】早尾貴紀(イスラエル/パレスチナ思想史)
【聞き手】浜邦彦(カリブ/ディアスポラ研究)

【日時】7月15日(金曜日)19時~21時
【場所】素人の乱12号店・きたなかホール(高円寺)
杉並区高円寺北3丁目8-12 フデノビル2F 奥の部屋
(北中通り沿いアヤマ接骨院脇の階段を昇って奥)
http://trio4.nobody.jp/keita/shop/12/map.html
【料金】資料代500円+投げ銭(自由意思)
【中継】http://www.ustream.tv/channel/7684094

「汚染される私の選択」.それは3月の原発爆発事故によって「汚染された」という完了形ではなく,いまなお進行中の,現在形・未来形の「汚染される私」の問題である.私は逃げるのか,とどまるのか.とどまるほかない人たちに,逃げろと言うことができるのか.私は汚染された食品を食べるのか,避けるのか.私が食べなければ,誰かがそれを食べさせられるのではないか.私は子どもを産みたい,産んでほしいと,自分にも相手にも,ほかの人たちにも,言うことができるのか.
原発震災は,その影響が及ぶ先々で,このようなジレンマを人々に強いることによって,家族やコミュニティを引き裂いている.
フクシマの悲劇は,まだ始まったばかりだ.これから明らかになる影響の深刻さを前にして,わたしたちはいよいよ,言葉を失うかもしれない.
今回の地下大学では,そうした苦悩の中で,わたしたちがとりうる選択とは何かを,徹底して語り合ってみたい.(文責:浜邦彦)

タハリール広場からアズハル大学まで──エジプトの人びと

◉「地下大学」への招待
「徹底討議 地下の中東」
5月講義@素人の乱12号店
5月28日(土)15時から
資料代500円+投げ銭

「タハリール広場からアズハル大学まで──エジプトの人びと」
山本薫(アラブ文学)+本山謙二(南島史、音楽論)

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=kqAQjN26X_I[/youtube]

アラブ中東の「革命」は今始まったばかりだ。
原発震災の暗い雲が頭上を覆う中で、「フクシマ」は「タハリール」と
絡み合う地球的な運動表象になった。

この2011年に二つの巨大な出来事が同時進行する、その只中に私たちは生きている。
その綾なすものが延びて行く先はまだ誰にも見えていない。
今は、二つの場所の名に降り積もった「時」を丁寧に解きほぐしていこうと思う。

過ぎた20世紀から今日まで、あの広場で何が起き、どんな歌を人々が謡い、何を語り、
どんなジョークで大笑いしたのか?
「タハリール」は地下で「高円寺」や「フクシマ」と、どう繋がっているのか?
それを、この場所で共に語り合いたいという爆発的な欲求が私たちにはある。

ぜひ、お集まりください。

ついに帰ってきた〈黒いアテナ〉───その思想史的地殻変動

◉再開「地下大学」への招待
「徹底討議 地下の中東」
4月講義@素人の乱12号店
4月28日 19時から
資料代500円+投げ銭

佐々木中さんへの手紙───エッセイ風の導入として
平井玄

私が佐々木中さんの言葉に初めて触れたのは、酒井隆史くんたちのVOL Collectiveによる『lexicon』(2009年、以文社)として編まれたキーワード集の中で、「フーコーとイラン革命」について書かれた項目でした。

他のメンバーたちのほとんどは街頭や研究会で顔を合わせている人たちばかり。ところがこの見知らぬ人物は、「現代思想系」とまるでひとつのマーケットのように呼び倣わされる場所ではまず語られることのない「イスラーム」について書いている。しかもその言葉は、短いながら極めて印象深いある種の「くぐもり」と「翳り」を濃厚に帯びていました。

フーコーが1980年に書いた「イラン・イスラーム革命」への詩的な讃美ともとれる論考が生涯の汚点のように語られてしまう。さらに末期の病床で「ヨーロッパ」に回帰し「自己への配慮」というギリシア的な境地に到達したとされる。そうした教科書的な語り方への激しい苛立ちが文面に沸き立っている。加えて「イスラーム」や「宗教」への何か独特の視線。「革命」という言葉がまるで漆黒の夜空に瞬くような文章でした。確かに、今やそうした哲学者たちの幾人かはそれこそ高校「倫理」のテクストで取り上げられている。VOLのグロサリー(用語集)そのものがそうした安全化への抵抗に違いないでしょう。その中でも、関節が外れたような独異なリズムを持つ矢部史郎のそれとは別の意味ではっきりと記憶に残っている。ページから弾け出るような不穏を秘めた文章でした。

「これを書いたのは誰だ?」
それより前の2008年に出版されていた『夜戦と永遠』を手にしたのはこのもう少し後です。そして未だに読み続けている。簡単には消化しない。消化などできない異物というべきです。そういう遠くから鈍く響きわたるものへの愛好が間違いなく私にはある。

そのうちに『切りとれ、あの祈る手を』(河出書房新社、2010年)が現れる。それらに読み耽り、また訥々と読み留まるうちに、「これは啓典の語りに似ているな」という思いを抱きました。モーセ五書をはじめ中央アジアから東地中海域にかけての宏大な空間から蝟集してきた「旧約」と名づけられた古叢書群、ナザレからやって来た私生児イエスの言行録の数々、そしてメッカに生まれメッカと対立したムハンマドの「クルアーン」として読み謳われる啓示集。そのハードボイルドな語りに似た口吻が聴き取れる。預言者たちを私たちの元に引き寄せるために「ハードボイルド」という言い方を敢えて選びましょう。

それらは「宗教」ではない。死地に直面した人々を励起させる言葉の群がりというべきです。そして人間の歴史に大きな「信」を問いかける言葉はいつも底深い「静けさ」を湛えている。その意味でそれは「革・命」の言葉なのです。生きようとする者たちの命を革める、天地と人との盟約を大きく革める言葉。「革命」という言葉の解釈権をマルクスの後継者たちが独占していた20世紀は無惨な形で終わったというべきでしょう。しかしそれは広告のレトリックではない。全世界で多くの者たちがその実現に生涯のすべてを賭けたこの言葉を、より宏大な人類史の中で再定義すべき時が来ているのは間違いないのです。

この著者は、そうした「革命」の思想史の一端として「現代思想」なる奇妙な名を冠された哲学者たちの仕事を読み継ごうとしている。だからラカンの破綻を、ルジャンドルの疎隔を、フーコーの蹉跌を大胆に語ることになるのでしょう。ドゥルーズ/ガタリが歩んだ屈曲の理路もその視野に入ってくる。そうである以上、読み解きの視野はフランスや西欧世界に留まるものではない。まさにこの点に、この帝都の最も猥雑なる街のひとつでそれと知らずにアジア諸民族の混濁の中で生きた、たった半径1キロの視野しかない私のような人間がゆっくりと反応したのです。

───今「事態」は私たちの前にある。遠くマグレブからマシュリクへと響きわたっていく「タハリール!」(解放)の轟き、さらに私たちを呑み込もうとしている地塊の震えと原子の狂乱、このふたつの波動が交錯する場所で私たちは暮らしているのです。大群衆の広場から、汚染された村から「言葉」の気配が伝わってくる。「文学」が必要とされる秋(とき)が来ている。こうした「事態」の中で共に語り合いたいと思っています。                            
                          
(2011年4月23日)

徹底討議「地下の中東 」3・4・5月連続講義

◉再開「地下大学」への招待
「徹底討議 地下の中東」
───3・4・5月連続講義@素人の乱12号店
資料代500円+投げ銭

1)3月25日 20時から
「レヴォリューション・ナウ!───千のタハリールへ」
イルコモンズ(文化人類学、映像アクティヴィスト)+木下ちがや(政治学)

2)4月28日 19時から
「ついに帰ってきた〈黒いアテネ〉───その思想史的地殻変動」
佐々木中(理論宗教学、小説家)+平井玄(半径1キロの思想家)         

3)5月28日 15時から 
「タハリール広場からアズハル大学まで───エジプトの人びと」
山本薫(アラブ文学)+本山謙二(南島史、音楽論) 

▶お立ち会いの皆さま、お久しぶりです。

「非正規労働者のための、非正規教員による、非正規大学──地下大学」を再開します。

西山雄二さんを呼んで映像『哲学への権利』を観る会を催したのが2010年の1月、その前ブランクの多い半年も含めて既に2年近く経っています。失職、移動、病気、雇い止め、とプレカリアな人間たちに相応しい非恒常性ですが、再びこうした「アンダーグラウンドな学び」の場が必要な時が来ました。

フリーター運動やオルター・グローバル運動が停滞し、喧しいストリート右翼が現れたこの2年間が「民主党時代」だったのは偶然ではないでしょう。菅直人は「小泉化」したというより、アメリカ戦争追従+新自由主義の遅すぎた「トニー・ブレア化」した。温いNPO型新福祉+ソフト・ネオリベによるギデンス的「第三の道」が有効に見えた時は完全に過ぎたということです。オバマも同じこと。こうして全世界でnext movementが模索されている中に私たちはいます。

チュニジアやエジプトに始まる「アラブ大騒乱」もそのひとつの反応でしょう。もちろんアメリカの操作はある。インテリジェンス機関は「反グロ」の10年間から多くを学んでいる。「富裕なカイロ・アメリカン大学生による欧米志向の運動で、ナセル以来のアラブ主義に対する世代間闘争」という報告もある。しかし、それだけでタハリール広場に100万人も人びとが集まるというのか?

たしかにこういう動きを、表面的なアラブ主義やイスラム主義で説明するのはもはや月並みなクリシェです。だが事実としてチュニジアやエジプトこそ、この地域における新自由主義のモデル国家とされたのがこの10年でした。石油資本とIT資本の諍いを超えて、その底流にオルター・グローバル運動への応答が潜んでいるのは間違いありません。

それとともにマーティン・バナールのいう「黒いアテネ」が逆流してきたのではないか。西欧精神の起源とされるギリシアの社会を造り出したのは、北アフリカやアラブに囲まれたレバント(東地中海圏)だったと捉える思想地理の書き換えの中から、こうした変動を見つめる必要がある。

アラブ、アフリカ、ヨーロッパ、アジアという分割を超える思想史的な含意とオルター・グローバル運動、その両者の絡み合いの中から考えようという3回連続討議です。吉野家の牛鍋丼は280円、地下大学は500円。ワンコインで、大きく深く抉り出す思考と運動が緊急に要請されているのは間違いないでしょう。

ドキュメンタリー「哲学への権利 国際哲学コレージュの軌跡」を観て

── 大学の外/哲学の地下
・西山雄二(監督 / 哲学)平井玄(音楽批評)、白石嘉治(上智大学)
・1月25日(月)上映=19:00~20:35 / 討論=20:45~22:00
・高円寺・素人の乱12号店・北中ホール (地図
・資料代500円+出来れば投げ銭

映画『哲学への権利』公式HP ⇒
http://rightphilo.blog112.fc2.com/

1983年、ジャック・デリダらが脱構築の論理をもとにパリに創設した半官半民の独創的な研究教育機関「国際哲学コレージュ」をめぐる初のドキュメンタリー映画。収益性や効率性が追求される現在のグローバル資本主義下において、哲学や文学、芸術などの人文学的なものの可能性をいかなる現場として構想し実践すればよいのか。監督・西山雄二が歴代の議長を含む関係者7名へのインタヴューを通じて、大学、人文学、哲学の現在形と未来形を描き出す。

国際哲学コレージュが受け入れてきた数々の革新は、根底的に変容しつつある世界へと思考をたえず開いてきた。この意味で、映画『哲学への権利』は「世界を変化させる」作業に対するきわめて貴重な貢献である。こうした変化の端緒が開けるのは、「世界」が意味するものの「解釈」を通じて、つまり、「国際」や「哲学」が意味するものの解釈を通じてなのだから。──ジャン=リュック・ナンシー

多種多様な角度からの鑑賞が要求される、哲学に関するたぐい稀な映画。私たちは、現代哲学が引き受けるべき責務を、西洋と非西洋という言説を乗り越えた世界を体現するという現代哲学の責任をたしかに思い出す。──酒井直樹

映画『哲学への権利』は過去の映画ではない。現在の世界における哲学の状況を問いながら、本作品が描き出すさまざまな方向性は、まちがいなく、未来の思考にとっての重大な指針となるだろう。──カトリーヌ・マラブー

[youtube]http://www.youtube.com/watch?v=nW5F2Mfz5lk[/youtube]

出演:ミシェル・ドゥギー、フランソワ・ヌーデルマン、ブリュノ・クレマン、カトリーヌ・マラブー、フランシスコ・ナイシュタット、ジゼル・ベルクマン、ボヤン・マンチェフ 
音楽:matryoshka (Novel Sounds)
監督:西山雄二
特別協力:国際哲学コレージュ
助成:文部科学省研究費補助金若手B課題番号20720002
後援:東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」
上映時間:93分 フランス語(日本語字幕付)

都市と新青年たち 社会的地理と運動する欲望

── ウヨ・フリーターの根拠を抉り取るために

・「秋の嵐」の映像記録 鹿島拾市 speaks
・ドキュメンタリー「新宿1970」 藤田五郎 speaks

・7月20日(月・休日)14~18時
・素人の乱12号店・北中ホール
・資料代500円+出来れば投げ銭

この数年来、フリーター運動、素人の乱、「自由と生存の家」
そして様々なフリースペースを徘徊する訳の分からない人びと、
「新青年/新女性」たちが都心部に現れている。

その一方で、埼玉の蕨で起きた排外デモのような排除の動きも、
ネット社会の巨大なゴミ箱の中から這い出してきた。
私たちの生きる「地理」は今、明らかに変貌しようとしている。

68年世代には理解できない少年・少女たちの運動が都市の路上に現れたのは、
1980年代終わりの「秋の嵐」からだったと思う。
彼らが出没した原宿は、当時半蔵門線が関東のディープ北部まで開通したばかり。

そのラインに乗って、郊外の低所得ローティーンたちが「竹の子族」やpunksとして集まり、
歩行者天国では隣にイラン人たちの一時的なコミュニティも生まれていたのである。
それでも竹の子族や家出少女たちは、中東から来た人たちを叩き出そうとはしなかった。

無惨な原理主義と化した「68年」の残照が消えた頃、新しい地理の運動が現れる。
しかし、「68年」そのものが新宿を中心とした「新青年/新女性」たちの大爆発だったのである。
新宿ー原宿ー高円寺と、大きく湾曲する都市空間の中で欲望する運動は動き続ける。

「1970年」の1年間で急激に変貌する新宿の街を撮ったNHKドキュメンタリーや、
「秋の嵐」による原宿路上でのスピーカーズ・コーナーを記録した80年代の映像を見ながら、
「ウヨ・フリーター」が出現する根拠を思い切り深く抉り取りたい。

谷川雁と竹中労

───〈うた〉は殲滅されたのか?「日本の歌」から「日本禁歌集」へ

神谷一義(off noteレーベル主宰)+平井玄+本山謙二

・6月29日 19~21時
・素人の乱12号店・高円寺北中ホール
・資料代500円+投げ銭(自由意思)

「動乱の詩人」谷川雁が、筑豊の坑底に逆巻く粉塵のように甦ろうとしている。
『谷川雁セレクション』(日本経済評論社)が刊行され、道の手帖『谷川雁』(河出書房新社)が刊行された。
そして歌に執心したもう一人の動乱思想家、竹中労による1969年の録音記録集「日本禁歌集」全5巻(off note)も復刻されている。
  
「ある時ある場所で、私たちの皮膚を全開放する肉声」(雁)は、一体、いつどのようにして殲滅されたのか?
私たちは今こそ「動乱の歌」を必要としている。

『日本禁歌集ブックレット』の刊行を機に、鎮圧され埋葬された歌声を聴きながら、1960年の谷川雁による「日本の歌」論から、60~70年代の竹中による禁歌から琉歌への運動までを、off noteレーベルを主宰する神谷一義とともに語り合いたい。

パリは燃えているか?

──パリ大学占拠レポート
4月20日(月)19時より
素人の乱12号店北中ホール
資料代500円+できたら投げ銭

土屋和之(パリ第4大学大学院生、スカイプ中継参加)
岡山 茂(早稲田大学教員)
白石嘉治(上智大学非常勤講師)
谷口清彦(パリ第4大学大学院生) 
コーディネート:井形和正(一橋大学大学院生)


フランスでは現在、68年五月革命より長いと言われる、大学関係者によるストライキとデモが行われています。

これはサルコジ政権の経済政策や教育「改革」に反発する動きで、多くの大学では教職員を中心として無期限ストライキが続いています。軌を一にして8つの労組が呼びかけたゼネストはフランス全土に広がり、500万人が参加したと伝えられます。また全国195か所で集会とデモが行なわれ、250万人の労働者・市民が参加したと報じられています。高等教育部門について、サルコジは「全国大学評議会(Conseil national des universites)」が現在持っている権限を大幅に縮小しようとする「改革」を打ち出しました。高等教育の自由と研究の自立の原則は教員・研究者に特別な地位を保証をしているわけですが、この「全国大学評議会」は、教員・研究員の採用と昇進について意見を述べる専門ごとに分かれた全国レベルの評議会です。その地位や権限を縮小して各大学の学長に人事の決定権を与えようとする画策に対して、大学教員や研究者が叛旗を翻しているという現状です。

また、このストライキは、非常勤講師の首切りに対して常勤の教員が支援したとも聞いています。これは東大、京大、琉球大など日本の大学での状況と酷似しています。このように伝聞調にならざるを得ないのは、日本ではこの問題がほとんど報じられていないことにも因ります。日本に伝わってくる情報は余りに少なく、私たちは「蚊帳の外」に置かれた状態です。このようなフランスでの状況について、フランスからはパリ在住の土屋和之さん、日本からは『現代思想』4月号でストライキについて書かれた白石嘉治さんと谷口清彦さん、および岡山茂さん(アレゼール日本事務局長)を招いて、スカイプによる実況中継で語っていただきます。フランスの状況は対岸の火事ではありません。

多数の方々のご参加をお待ちしています。

参考:
http://daigakuseishiwomaku.blogspot.com/ (大学生詩を撒く)
http://www.emancipating-education-for-all.org/ (Emancipating Education For All)
http://www.edu-factory.org/edu15/ (EduFactory)
http://www.vagueeuropeenne.fr/ (Vague européenne – Louvain2009)
http://www.sauvonslarecherche.fr/ (Sauvons la recherche)
(さらに…)

資本主義解体講座

「新自由主義は終わるのか?」
───『金融危機の資本論』(本山美彦+萱野稔人)から

萱野稔人(哲学)+山口素明(フリーター労組)
コーディネート:平井玄

・ 3月28日(土)14時から
・素人の乱12号店 北中ホール
・資料代500円+できたら投げ銭


貧乏人は生き延びることができるのか?そんな言葉がこの身に食い込む。
今、私たちはかつて経験したことのない「時間」を生きている。
製造業の派遣切りや正社員削減ばかりがメディアで取り沙汰された。
だが彼らの行き着く先、都心部フリーターこそ食えない。
1月から仕事がゾッとするほど激減した。

月10日以上仕事のある者など、周りにはまったくいない。
1月はまだ去年の蓄えがあった。2月になると、ATMが吐き出す
残高記録を見るたびに痩せていく数字が眼に痛痒い。
やってくる春のことなど考えたくもない。彼らのメールで囁かれるのは、
「これがいつまで続くのか?」ということばかりだ。

終電が終わった新宿駅の地下に行けば、まだ油染みの少ないジャンパー
で段ボール1枚持って寝場所を探す人たちに会うことができる。
JRから地下鉄へ向かう通路の脇で、邪魔にならないように縦に並んで寝る。
これまで見たこともなかったその「縦」の列が日ごとに長くなる。
ハウスの作り方を、この元派遣や元フリーターたちが覚えるのは早いだろう。

毎日毎日、アパートの部屋で携帯を握りしめながら就活と失職を繰り返す
女たちや男たち、食い物を探して街の隙間から隙間へと身を隠すように移動する
人間たちの姿を、当局者はどうカウントするというのか?
この国が発表する統計数字は人を騙すためにある。
目の前で地下に流れ込む人間たちの濁流こそが、今起きていることである。

これは大地震や巨大津波のような、どうにもならない「自然災害」なのか。
「百年に一度の大恐慌」とは、そんな「自然循環」の幻に人を閉じこめる言葉。
「恐慌、貧困、危機」とタイトルされた本はみな、企業タワーの最上階でエリー
トたちが自分のために語る言葉か、「這いつくばってどうにかやり過ごせ」とい
う奴隷の言葉で書かれている。貧乏人にはブックオフで買う気も起こらない。

2年前まで院卒フリーターだった萱野稔人が、68年を経験した経済学者である
本山美彦と語り合った『金融危機の資本論』は、この閉じた「時間」をこじ開け
ようとしている。今はちょっとした「調整」の時、と値の下がったネオリベ株に
しがみつく亡者どもと、生き延びるための具体性になかなか手の届かない
「プレカリアート運動」との間に、きわどい「逃げ道」を作り出そうとしている。

この落ちていく「時間」は、どこから来たどんな時間なのか?
貧乏人たちは、この「時間」をどう生き延びたらいいのか?
語られる「アジアに開かれた経済的ナショナリズム」はどんな「迂回」なのか。
そこに危険はないのか。その先にどんな未来があるのか。

萱野稔人によるこうした提起は、新自由主義にぶつかった晩年のピエール・
ブルデューが抱いた強い危機感を思わせる。腹の減った者たちは、このヤバさを
何よりもまず共有するだろう。食えなければ死ぬからだ。
ここから議論を始めよう。

私たちの友人が投げかけたこの貴重な提起について、
フリーター労組を担ってきた山口素明と共にしぶとく語り合いたい。

(平井玄 参照→http://booklog.kinokuniya.co.jp/

ローカル・ミュージック フランスから日本へ

ローカル・ミュージック。それはとりあえず地方の音楽だが、今日的なローカルは、郊外や都市の内部にも現れる。それは、鳴ってみて初めてその場所の必然性が意識されるような「場の音楽」であるだろう。主な拠点は、実体不明の権力に支配されている。一般的な舞台は、電子空間のなかに追いやられ、囲われて、拍手喝采は届かない。そう、今日のローカル・ミュージックは、マス・メディアに見過ごされた素晴らしき音楽の名前でもあるのだ。

今回は、主に南フランスで盛んなローカル・ミュージックを紹介したい。音楽を聞くだけでなく、歌詞も訳して読んでみたい。境界線は、単に越えるのではなく、引き直すことで相対化しよう。そうしてできた、多分に想像的な共同体を、いまや死に体となった既存の共同体への問題提起とする。そこまですれば、私たちの文化の現在形が明らかになるだろう。

当日は、現代日本のローカル・ミュージックにも注目したいと思います。皆さん、これぞローカルな一曲を披露してみませんか? 時間の許す限り、対応させていただきます。
(さらに…)